「自分のこの性格を何とかして社会不適合者から脱したいです」の相談内容詳細
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いまストレスを感じている「出来事」を事実ベースで抜き出してみてね。
「いつ・どこで・誰が・何を」を意識するのがコツだよ。
- 約半年前、一人暮らしを始めてから仕事がしんどくなってやめた。
- 「1」についての「感情」を%で表現してみてね。合計で100%にならなくても大丈夫。直感で書いてみよう。
- 自己嫌悪100%
- 「1」について浮かんでいる「考え」を教えてね。
- 自分が嫌いで嫌いで仕方がない。いなくなってしまった方が人類みんなのためとか、そんなことばかり考えてる。そんなこと考えてる自分もまた馬鹿馬鹿しく感じる。自己肯定感がばり低くてそのくせプライドだけはばか高くて偏屈な自分が世界でいちばん嫌いだ。仕事がしんどくなったとか言って、精神科にわざわざいって適応障害っていう診断名を先生からわざわざ出してもらって、今はヒキニート。頑張るって言って引越しまで家族に手伝ってもらったくせにまた迷惑かけて実家戻って親のスネかじりまくって、何にもしてない自分に腹が立って、なのになにか仕事につかなくちゃと思っても怖くて出来ない自分に嫌気がさして、でも死ぬのも怖い。
すぐ他人と自分を比べて、でも他人から自分を比べられるのを酷く怖がって、注意を受けるのを怖がって、何も自分から行動できない。何をするにも、自分のやってることが正しいのか本当に分からなくて他人に聞かないと何も分からない。主体性なんて欠けらも無い。だから職場でも迷惑かけっぱなし。同期の子も、教えてくれてた先輩もすごく優しくてとても励ましてもらってたのに、それでもやめてしまった自分が許せなくて、情けない。こんなことは甘えだと思う。全て自分の甘さが招いた結果だと思う。 - いろんな視点から捉えるために、上記の回答の「別の可能性」を考えてみよう。
- 他人からの目が気になって仕方がない。「こんなことしたら呆れられないだろうか」「嫌われないだろうか」「ウザがられないだろうか」そんなこと考えて、他人の言動に人生楽しくなったり死にたくなったりしてる。人間関係の悪かった記憶しか残らなくて、すぐに距離をとろうとする。素の自分を見せたらきっと嫌われてしまうから。だから友達はとても少ない。友達に見限られるのが怖すぎて自分から距離をとろうとする。
人からの好意を素直に受け止められない。なんか裏があるんじゃないかとか、自分はそんなんじゃ全然ないとかそんなことばっかり考えてる。
他人に弱みを見せられない。家族にも友人にも。相談とかして自分の印象や態度が変わったらとか思うと怖くて言えない。それに自分のために話を聞いてもらうのが申し訳ない。自分の弱みを他人に理解してもらうのは逃げだと思う。自分の性格がこんなだから悪い。悪いのは全部自分なんです。なのにこちらで救いを求めようとなんかして。 - いま専門家に聞いてみたいことは?
- でもこのまま社会不適合者で人生終わりたくないんです。こんなどうしようもない人間でも変われますか?生まれてきて、生きててよかったって思えるのでしょうか?人と素直に話せるようになりたい。主体性を持ちたい。自信が欲しい。
- 年齢、性別、職業
- 21歳、女、元看護師
- 既往歴
- てんかん、月経不順、適応障害、重めの鬱状態
- 悩みの内容の自由記述
- 上記が全てです。書き方が間違えるかもしれませんが、読んでいただけると幸いです。
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30歳まで
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22
看護師なりたての時、「まだ一人で手技をやってはいけませんよ」と説明をうけた。なのに、怖い先輩に1人で「〇〇やってきて」と言われた。1人では出来ない。と伝えたところ「その態度何様なの?」と説教をうけた。
説明の通りに答えただけなのになんで怒られるの?言い方がまずかったの?そんなでかい態度なんて取ってないのに。一人でできることはいきなり1人でしていいの?それじゃああの説明はどうなるの?それで失敗した時の責任は誰になるの?一人でやるのが怖い。先輩怖い。ここにいたくない。
そこから、何をやっても、何を質問しても怒られるんじゃないかと思って怖くなって自主的に何かをするってことが出来なくなった。その人のことがトラウマになっているのか、夢で出てきたり、似ている人を見つけると息が一瞬止まる。病院からはかなり距離が離れていてその先輩がいることなんてありえないってわかってても怖い。嫌い。
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意を決して再度受けた病院試験に落ちた
これまで試験のために頑張って来たことが全部無駄になった。受かると思ったのに。受からせてくれない病院にも、落ちた自分にも嫌気がさす。
就職活動頑張ったけど挫けそう
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21
国試の勉強を友人と一緒に図書館や学校で頑張っていた。母からは「コロナになったら大変だから家でやれ」と言われたが、感染には注意し勉強を続けた。国試合格後母から、「友達との勉強無駄」と言われたこと。
なぜ当事者でもないのに無駄だったなんてこと分かるんだろう。決めつけないで欲しい。自分は友人と頑張ったから集中して勉強できたから絶対に無駄では無いと思った。いくらあなたが1人で勉強できる人だとしても其れを私に押し付けないで欲しい。
今でも母のことでイライラするとこの言葉が思い出されてもやもやする。言われた時は怒りはしたが上手く言い返せなかった。本当はその時の気持ちを話したいけど、今更自分の気持ちを母に打ち明けても「私そんなこと言ったっけ?」と言われるか、母が一方的に不機嫌になり怒ってくるので多分無駄だから話さない。
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21
いちばん時間を忘れてできることはゲームやカラオケ、手芸や絵を描くとかの趣味。集中すると5時間や10時間できる。
時間も忘れて、今日あった嫌なことも全て忘れて目の前の作業に集中してた。ストレス発散にもなっていた。
仕事を辞めてからは仕事してる時よりもその趣味に没頭するようになった気がする。
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21
自分の中での1番の成功体験は看護師の国家試験に現役で合格出来たこと。
辛い実習も訳の分からない国試の勉強も、全部頑張って合格出来た。
頑張った結果、努力は実った。
努力したからと言って必ずしも成功するとは限らない。
もしかしたら運が良かっただけかもしれない。
それでも何とかやってこれた。
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20歳まで
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18
中学から高校まで吹奏楽部に所属していた。部活は忙しくて勉強との両立も大変だったけど、仲間や先輩に巡り会えて音痴も治って姿勢も良くなった。
頑張ったことには自分にも成果が多少なりともあるんだと思った
今でも、吹奏楽部やマーチングをやったことは誇りになっている
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18
言われて傷ついたこと母との口論中、母から面と向かって「消えろ」と言われたこと。
まさか面と向かって母に消えろなんて言われると思わなくてショックだった。普段キレると怖いけど、そんな暴言を吐く人じゃなかった。かく言う自分は反抗期真っ盛りでよく母に当たり散らしてた。私が言わせてしまったんだと思って悲しくなった。
この時のことで自分の気持ちを相手にぶつけてしまうと傷つけたり、逆に自分が痛い目見ると思ったら、なにか相手に言いたいことがあっても言い出さなくなった。言っても無駄だと思うことは言わなくなった。
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18
友達関係を続けられなくて、自分から関係を切った
よく3人でつるんでた友人がいて、学校生活は楽しかった。弁当も毎日3人が揃ったら食べてた。でも、3年の受験勉強やらのストレスからか自分や相手の嫌な部分が見えてきた。そしてその2人の友達が、私がいない間に仲良く弁当を食べてたときに、「この2人に私は必要ないんだ」と思って自分から絶交した。自分からやったのに、2人の態度も冷たくなったことが悲しくて、孤独なことに耐えられなくて暇さえあれば勉強してた。
他人と関係を深めていくうちに、自分の嫌なところとか、他人の嫌なところがだんだん見えるようになってきて、これ以上嫌いたくない、嫌われたくないから、そうなる前に自分から関係を切るようになった。
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14
授業中に私語をよくする男子生徒に注意をしていたら嫌がらせを受けた。
時には汚物扱いをされたり、暴言を言われたりした。先生に相談したが、結果的に注意をして私が悪いということになり、その男子生徒に私が謝ったことで嫌がらせは収まった。なぜ私が悪者にならなければいけないのかイライラして仕方なかった。
中学の頃は絵に書いたようなバカ真面目だった。今となっては、中学生の私語ごときに過剰反応していた私が悪いと思う。男子生徒には申し訳ないことをしたと思ってる。
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今の趣味をやり始めたきっかけは、手先の器用さに自信があって、作ったものを他人に褒めてもらえるのが嬉しかったから。
やり始めた時は上手く出来なくても、何回かやるうちに自分の成長が感じられて嬉しかった。出来上がった作品をすごいね!器用だね!って褒めてもらえるのも嬉しかった
今でも手先の器用さには自信がある。私の趣味は、誰かに見せて褒めてもらうための趣味なのかもしれない
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小学生最後の運動会のマラソンで前を走っていた相手を抜かせたこと
運動性の障害があり、運動会は大嫌いだった。マラソンの練習で体が動かなくなり、男子生徒にからかわれたことがとても悔しくて走る練習を頑張った何とかサボらずに走るのを頑張って速くなれた。最後の運動会はいい思い出になった
運動の障害は今は治療によって改善され運動も嫌いではなくなった。
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親にされて嬉しかったことは、学業などで褒めてもらうこと
褒めてもらえると素直に嬉しかった。褒めてもらうために頑張ろうって思えた。頑張りみてもらうことが嬉しいかった。中学に入ると「褒めるとおだてられて調子乗っちゃうから」というよく分からない理由で褒められなくなって、逆に厳しい言葉が増えた気がする。
自己肯定感が恐ろしいほど低いのは、褒めてもらえなかったからなのだろうか?そこからなのか、他人に褒めてもらっても素直に受け止めることが難しくなった
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10歳まで
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7
小学生の頃までは家族とよくキャンプに行ってた。キャンプ場でバーベキューしたり、温泉に入ったり、遊んだりするのが大好きだった。
キャンプ楽しい。ここ行きたい!とかこれしたい!っていっても大体許してもらえてたから。時々でもいいから、ずっとこのまま家族とキャンプ行けたらいいな。そしたら嫌なことも忘れられるのに。
キャンプのおかげで自然が大好きになった。家族と出かけるのも大好き。今は、家族それぞれの時間があって、コロナのせいもあり出かけること自体少なくなった。またみんなでキャンプしたい。寂しい。でも、日帰りでもお出かけも、出発した時のワクワク感とか次はどこに行くかな?って考えるのが楽しい。
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5
保育園児のころ、1人の先生から嫌がらせを受けていた
1人の先生は、私一人に対してだけひどく叱ったり、歩いている途中に足を引っ掛けられて転ばされ、先生の顔を見ると鼻で笑われた記憶がある。怖い先生だなと思い、あまり関わらないでいた。
今になってあれは先生の嫌がらせだったんだなと認識した。でもなぜ自分だけ嫌がらせを受けていたのかはよく分からない。
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4
小さい頃は愛想がよく、色々な人からかわいいと言われていた。相手を不快な気持ちにさせたくなくて、どんなに年老いたお婆さんでもおねぇさんと呼ぶようにしていた。
そうすると相手のご老人も笑ってくれるので嬉しかったから。小さい頃から他人を笑わせるのが好きだった気がする。
自分のとった言動で相手に笑ってもらえるのは嬉しい。ただ嘲笑などは不快だからされたくない
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※ プライバシー保護のため、ご質問の一部を編集部で変更している場合がございます。
「自分のこの性格を何とかして社会不適合者から脱したいです」への回答
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回答したカウンセラー
むーです さん、ご相談をよせてくださりありがとうございます。臨床心理士・公認心理師の小野寺です。
「こんなどうしようもない人間でも変われますか?生まれてきて、生きててよかったって思えるのでしょうか?」が むーです さんのお聞きになりたいことなのですね。藁をもすがる思いで尋ねられているように感じられ、こちらも胸が締め付けられる感覚があります。
「こんなどうしようもない人間」と むーです さんが思われるようになったのは、「仕事がしんどくなってやめた」ことがきっかけでしょうか。それ以降強くご自身のことを「自己肯定感がばり低くてそのくせプライドだけはばか高くて偏屈な自分」「主体性なんて欠けらも無い」などとお感じになり、それが【タイトル】にある「自分のこの性格を何とかして社会不適合者から脱したいです」につながっているのでしょう。
今の むーです さんはご自身の性格を責め、そんなご自身に対して強い「自己嫌悪」(100%)がありますよね。けど、はたして むーです さんはそんな性格なのでしょうか…?
私には、 むーです さんの性格の問題のように思えないし、また、 むーです さんの性格に問題があるようにも思えませんでした。
まずは、私が「性格の問題のように思えない」と感じた理由からお話させてください。
なお、 むーです さんは同様の内容のご相談をもう一つお寄せくださっていますので、今回のお返事で、そちらのご相談へのお返事もかねることにさせていただきます。従って、一つ目のご相談内容に準拠しつつ、必要に応じて二つ目のご相談内容にも触れていきたいと思います。
トラウマから離れるのは英断
むーです さんは今回のご相談の【タイトル】を「自分のこの性格を何とかして社会不適合者から脱したいです」と記載されました。
【タイトル】は相談内容を端的に要約したものになることがほとんどです。きっと むーです さんはそれほど強くご自身を「社会不適合者」とお感じになり、その結果を招いた原因は「自分の性格」にあるとお考えなのでしょうね。自分を「社会不適合者」と感じるだけでも辛いのに、「性格のせいで」と考えるとその辛さは何倍にも膨れ上がることでしょう。
でも、本当にこの結果は、 むーです さんの性格が招いた事態なのでしょうか。私にはとてもそうは思えませんでした。
私には、「怖い先輩」によるトラウマの影響があるのは明らかに思えます。トラウマがある場合、その対象から離れるのは極めて現実的な対応です。まして「多重業務、人手不足、患者の増加、長期の残業」まであったのですからなおのこと。極めて適応的な対処をなさったと思います。英断だと思います。実際、「適応障害だと診断され、重めの鬱状態だと言われ」る状態だったのですから。
ご存じかと思いますが、トラウマは「心の傷」です。身体の傷と平等に扱って然るべきものだと思います。「そこに行ったら怪我をする」のがわかっていたら、その場に近づかないようにするのが当たり前のように、「そこに行ったらトラウマを負う」のがわかっているところからは遠ざかるのが正しいのです。
「同期はまだ頑張ってる」と思われるかもしれませんね。しかし、たまたま「同期」となっただけで、それ以外の立場は全く違うはずです。立場の異なる方々と むーです さんを比較しても比べられる側面はほんのわずかです。
「怖い先輩」との相性が良いか悪いかも違ったはずですし、「持病」を持っていたかどうかも違ったはずです。
もちろん、トラウマを負うかどうかと「どんな性格か」とはまったく関係しません。トラウマがあるだけでも相当辛いですよね。「全て自分の甘さが招いた結果だ」とよけいに傷つけるようなことはしないでいてくれたらな、というのが私の率直な感想です。
むーです さんは「退職したのは逃げだと思う」とおっしゃっていますが、絶対にそんなことはありません。何度でも言いますが むーです さんが取った行動は極めて適応的な対処であり、英断です。
自分の弱みを見せても逃げにはならない
「逃げ」と言えば、もう一か所 むーです さんがこの言葉を使っているところがありました。それは「自分の弱みを他人に理解してもらうのは逃げだと思う」と書かれた部分です。私はこの部分もとても気になりました。
この文章のすぐあとに、「自分の性格がこんなだから悪い。悪いのは全部自分」と書かれたことと、退職を逃げだと表現されていたことから推察するに、 むーです さんは「他人に理解してもらう」ことを次のように捉えておられるように感じました。
「『あなたは悪くない』と言ってもらうこと」
むーです さんは適応障害と診断されたことを「口実」と考えておられますね。「適応障害なのだから退職しても仕方がないよね。あなたが悪いわけじゃないよ」との免罪符のように感じておられるのかもしれません。
同様に、「他人に理解してもらう」も、あたかも「あなたは悪くない」と言ってもらうことのように感じられて、それを「逃げ」と感じるのでしょうか。
「他人に理解してもらう」ことをつい「逃げ」と思ってしまいますよね。でも、本当の意味で「理解してもらう」のなら、それは決して「逃げ」ではありません。
なぜかというと、人に自分のことを話すには、まず自分に向き合う必要があるからです。「逃げる」と「向き合う」はまったく別の方向を向いていますよね。
本当は「向き合うこと」なのに、どういうわけか多くの方が「自分の弱みを他人に理解してもらうのは逃げ」と思う傾向があるので、私はこの傾向のことを自己開示を躊躇させる「罠」だと考えています。
相談は「逃げ」の真逆
「他人に理解してもらう」ことは「逃げ」ではないことについてもう少し詳しく考えていきたいと思います。
なお、二つ目のご相談に「自分の弱みを見せたくないのは、相談できる人がいないからだと思う」と記載してくださったことを受け、「他人に理解してもらう」ことを、ここでは「相談」と呼ぶことにします。
私が「相談は逃げではない」と思うのは、自分が心理カウンセラーをしていることが強く反映されているかもしれません。
仕事柄、患者さんから相談されることが日常茶飯事です。私に相談してきてくださる患者さんは皆様共通して自分が「弱み」と感じているものの正体を、ある程度突き止めなければなりません。
そしてそれを他人、つまり私にもわかるように説明するよう尽力してくださっています。「他人に理解してもらう」のって、本当に大変な作業です。いつも患者さんには頭が下がる思いです。
「相談」はこれだけでは終わりません。さらに他人(私)と「弱み」を共有したからには、その問題を解決していく責任を持たねば、と必死な思いをされています。
私はこれらの作業をどうしても「逃げ」だとは感じられないのです。その反対に「自分に向き合っていらっしゃる」と感じます。そういう意味では、むしろ「戦っている」とさえ思います。
相談がうまく行く場合、患者さんは相談をする前後でまるで様子が異なっているものです。自分の問題に向き合ったからこそ、「これでいいんだ」「やってこれたんだ」と自信がつくのでしょう。
単に誰かから「あなたは悪くない」と言ってもらえるのが「相談」なのではなく、自分自身で自分を肯定するまでのプロセスこそが「相談」なのだと私は思います。
でもなかなか多くの方にとって「相談」って身近な行為ではないですよね。自分と向き合う時間を確保するのも大変だし、そもそも骨の折れる作業だからです。
なにより、相談に乗る方もそれなりの覚悟が要ります。だから、(必ずしもいつもそうだというわけでは決してないのですが…!)相談された側もつい理解のない言葉を発してしまったり、「あなたは悪くない」と言って幕引きを図りたくなることがあります。
この結果弱みの正体がわからず、その場限りの心の安寧だけを手に入れた感覚になってしまう。これが、「自分の弱みを他人に理解してもらうのは逃げ」だと考えてしまう「罠」に陥ってしまう理由なのかもしれませんね。
「相談」は決して逃げではありません。自分と向き合うことです。そういった意味合いの相談を受けてみるのも手だと思います。
いきなり「向き合う相談」と言われても、どうすればいいのかわかりませんよね。その点では、やはり「向き合うプロ」に相談できるカウンセリングを受けることをおすすめします。
二つ目のご相談に「心理カウンセラーが身近にいなくて、精神科も市立病院にしかないから相談しづらいのかも」とのご記載がありましたが、最近ではオンラインでのカウンセリングもありますので、そのような形式での実施も検討してみてもいいかもしれません。
「オンラインカウンセリングもハードルが高い」ということであれば、もちろん身近な方への相談でも問題ありません。「母は愚痴ると対応策を話してくれるけど、傾聴はしてくれない」と二つ目のご相談にありましたが、「私は傾聴して欲しいだけ」と伝えてからお母様に相談するのも手です。
「友達はとても少ない」とのことですが、裏を返せば「精鋭の友達がいる」とも言えるので、そんな選りすぐりのご友人に相談してみるのもいいかもしれませんね。
プライドと主体性の意外な関係
むーです さんがご自身の性格に原因があると捉えたのは、もしかしたら「自己肯定感がばり低くてそのくせプライドだけはばか高くて偏屈」と思っておられることが影響しているかもしれません。
自己肯定感が低くなってしまっていることが、「自分の性格が悪いからだ」と、あたかも全ての非が自分にあるかのように感じやすくさせていたのでしょう。
であれば、これはある意味でチャンスです。罠から抜け出せれば、つまり「相談」をすることができれば、自己肯定感を育むきっかけに繋がるからです。
「相談」によって自分と向き合うことができれば、自分のいい面も悪い面も両方客観的に見えるようになるかもしれません。そうやって「自分はこういう人間である」と分かることが「自己肯定感」を高めるのにとても大切な行為なのです。
「プライドが高い」に関しても「相談」によって見え方が変わることも十分にあり得ます。「プライドが高い」って言葉は否定的なニュアンスで捉えられることが多いのですが、角度を変えてみればとても素敵なこととしても見えるものだと思うのです。
あるTVで武田 鉄矢さんがこんなことを言っていました。
「『プライド』とは、『私は』と言えることである」
今井 美樹さんの曲『PRIDE』を受けての発言でした。
この言葉が紹介されたTV番組はかなり昔のものだったのは確かですが、それ以外の記憶は極めてあいまいです。なんの番組だったかすらまったく覚えていません。でも、この言葉だけが今でも私の印象に強く残っています。それくらい納得感の強い言葉でした。
私の考える「相談」はとことん「私(自分)」と向き合うことです。
「私はどういう人間なのか」
「私は何を感じているのか」
「私はどうしていきたいのか」私は、本当のプライドの高さは「私は」が言えることだと思います。相談はそんな「私は」をたくさん培う場であるはずです。
お気づきかもしれませんが、この「プライド」は「主体性」と言い換えても全く問題がありません。 むーです さんはご自分を「主体性なんて欠けらも無い」とお感じになっておられますが、プライドと主体性はコインの裏表。「(私は)弱みを見せたくない「(私は)主体性が欲しい」と感じることも主体性の芽です。決して「欠けらも無い」なんてことはないのです。
このように見ていくと、「プライドが高い」ってそんなに悪いことではないように思いませんか? プライドの高さをもって自分を揶揄する必要はありませんので安心してくださいね。
過去の振る舞いから性格は類推できる
話がかなり込み入ってきましたね。ここまでのお話をいったんまとめてみたいと思います。
むーです さんはご自身のことを「こんなどうしようもない人間」と評価されています。そう思う主なきっかけは退職してしまったことでしょう。 むーです さんはそれを自分の性格に原因帰属していました。しかし、私から見れば、性格の問題ではなく明らかにトラウマの影響のように思います。
きっと むーです さんは「トラウマ」にせよ「適応障害」にせよ、自分以外に原因を求めることを「逃げ」だと感じるのでしょうね。
「他人に理解してもらう」ことも同様の事柄のように思われているのかもしれません。あたかも「あなたは悪くない」と言われるための行為のように感じて、相談も「逃げ」と思っているのだと思います。しかし相談は自分と向き合うことですから、逃げとは真逆の行為なのです。いい面も悪い面も両方客観的に見えるようになるかと思います。
今の むーです さんはトラウマの影響もあり、「自分の性格がどうしようもないからだ」とあたかも全ての非が自分にあるかのように感じているのでしょう。でも、絶対にそんなことはありません。
さて、ここまで整理できました。では、次に「どうしようもない人間」と思っている むーです さんの実際の性格がどんななのかも見ていきましょう。
一番正確に把握する方法は、心理検査を受けることでしょう。しかし、過去の様子をよく観察することでも、ある程度性格を理解することは可能です。
性格とは、その人の行動に一貫性を持たせるものだからです。過去の出来事に対してどのように取り組む傾向があるかを調べれば、そこから「性格」を類推できるのです。
この観点から考えると、 むーです さんの性格は「人と喜びを共有する」「努力家」な側面がありそうです。
「人と喜びを共有する」のは、「どんなに年老いたお婆さんでもおねぇさんと呼ぶようにしていた」「出来上がった作品をすごいね!器用だね!って褒めてもらえるのも嬉しかった」「家族と出かけるのも大好き」などの記述から、そう推察しました。
「努力家」は「走る練習を頑張った」「音痴も治って姿勢も良くなった」「看護師の国家試験に現役で合格」「意を決して(病院試験を)再度受けた」などからです。
このように推察すると、 むーです さんのことを「どうしようもない人間」と考えることにも無理があるように感じてきます。
【タイトル】に「自分のこの性格を何とかして社会不適合者から脱したいです」とありましたが、性格を何とかする必要は、実は初めからなかったのかもしれません。
すでに一歩目を歩み始めている
最後に「社会不適合者で人生終わりたくない」とのお気持ちについて触れていきたいと思います。
「社会不適合者」とは、 むーです さんのお言葉を借りると、「ヒキニート」「親のスネかじり」「何にもしてない自分」のことを意味しておられるのだと思います。
ここでは「ヒキニートは社会不適合者と言っていいのか」の議論は置いておきますが、 むーです さんが上記の状態から抜け出すには、やはり、私の述べる「罠」から抜け出す必要があるのではないでしょうか?
「自分の性格の問題」で終わらせていては、具体的な策は見つかりません。
「私はどういう人間なのか」
「私は何を感じているのか」
「私はどうしていきたいのか」まずは「私はどういう人間なのか」。ここを むーです さんにも今一度しっかりと考えて欲しいのです。いい面も悪い面も両方、です。
考えるとき、ぜひ誰かに「相談」をしてみてください。きっと、道が開けていくと思います。
「こちらで救いを求めようとなんかして」と、ココロジーに相談を寄せられた自分を責めておられましたが、相談をよせてくださったことで、 むーです さんは今大きな一歩を踏み出されたんだと思います。こうして誰かに「相談」できたことは、間違いなく「主体性」に繋がっていくと思います。
そんなプロセスの始めの一歩をココロジーを使って歩んでくださりありがとうございました。誰か素敵な相談相手が見つかり、 むーです さんが「生まれてきて、生きててよかった」と思えることを願っています。