「からげんきの時と無気力になる自分がいます」の相談内容詳細
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いまストレスを感じている「出来事」を事実ベースで抜き出してみてね。
「いつ・どこで・誰が・何を」を意識するのがコツだよ。
- 無理にからげんきになる時と、すごくネガティブになる時があります。
現在、私は就活中です。だけど、同じ年の子はもう就活を終了しています。大学も今年卒業してしまいます。
去年の前半の時にもこのからげんきの時と、ネガティブになる時になっていました。しかし、去年の後半に今まではなりたい職業の選考課題をこなしたり、趣味をしたりで、精神的に安定はしていました。
ただ、なりたい職業の選考に落ちてしまった時から、またからげんきとネガティブが再発してしまいました。
また、精神的に安定していた時には、人を信じられるという精神状態になっていたにも関わらず、今はたまに疑心に囚われてしまいます。 - 「1」についての「感情」を%で表現してみてね。合計で100%にならなくても大丈夫。直感で書いてみよう。
- から元気60%or憂鬱・疲労80%、疑心30%、諦め40%、自己嫌悪100%
- 「1」について浮かんでいる「考え」を教えてね。
- からげんきになった時は、本当に強くなっている気がするんです。どんなところでも勝負しにいくぞと言ったような。絶対負けてやるものかと言ったような。
そこで作った予定をこなす時、「ああ自分ってバカだ」とか、「こんな勝負勝てるわけない」とかそういう考えになるんです。
課題とかをただこなしている時には、あんなにも「負けるかどうかはわからないけど、とりあえずやり切ってみよう」って思っていたのに。
からげんきになった時の自分が気持ち悪くて仕方ない。明るく人と話したり、勝負に出ている自分を思い出すたびに、恥ずかしいし気持ち悪い。結果を出さなくて、もしかしたら人に不快な思いをさせているかもしれない自分が気持ち悪くてたまらない。 - いろんな視点から捉えるために、上記の回答の「別の可能性」を考えてみよう。
- 自分は疲れているんだなとは思います。
で、からげんきの状態も止める時だなって思っています。 - いま専門家に聞いてみたいことは?
- 就活のこともあるので、精神を安定させたいです。だけど、精神状態がコロコロ変わるせいで物事にも集中ができない。
精神を落ち着けるにはどうしたらいいでしょうか? - 年齢、性別、職業
- 22歳、女性、大学生
- 既往歴
- --- 未回答 ---
- 悩みの内容の自由記述
- --- 未回答 ---
自分史はまだありません。
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「からげんきの時と無気力になる自分がいます」への回答
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奇談 さん、ご相談をよせてくださりありがとうございます。臨床心理士・公認心理師の小野寺です。
からげんきのときと無気力になるときの波が激しいので安定させたいとのご相談ですね。「私は就活中です」と記載がありましたが、お返事が遅くなりもう大学を卒業されたであろう時期になってしまいました。申し訳ありません。
文面から察するに、このご相談を書いてくださった時期は、どちらかというと「無気力」になっている時期だったでしょうか? 「からげんきになった時の自分が気持ち悪くて仕方ない」「恥ずかしいし気持ち悪い」との記載があったからです。自分を責めるような気持ちが出てきて、とてもしんどいだろうなと思います。
就活が終わったことで、からげんきと無気力の波が収まっていればよいのですが。
以後のお返事は、まだ収まっていない場合や、今は収まっているけど今後何かあったときに再燃してしまった場合に備えた内容についてお伝えしていければと思います。
気分の波にはマインドフルネスが有効
奇談 さんのおっしゃる通り、からげんきと無気力がコロコロ変わってしまうと、物事に集中ができなくなってしまいますよね。だから「精神を落ち着けるにはどうしたらいいでしょうか?」と思われるのは当然のことでしょう。
そんな精神を落ち着ける方法として、近年では「マインドフルネス」が注目を集めています。最近はいたるところでこの言葉を目にしたり耳にしたりするので、もしかしたら 奇談 さんもご存じかもしれませんね。
マインドフルネスとはもともとは仏教由来の言葉で、仏教では『正念』と言います。簡単に言えば、「あらゆるものをあるがままにとらえること」を意味します。この考え方が心理学の世界にも輸入されてきたのです。
ただ、あまりにも急に広まりすぎたため、しっかりとした定義がされないまま無尽蔵にマインドフルネスという言葉だけが独り歩きしている状態です。ある人は「ストレスを軽減する方法だ」と言いますし、ある人は「ストレスを減らして生産性を高めようだなんて、もともと仏教で言われていたマインドフルネスの考え方とは真逆だ」と言います。
「マインドフルネス」のやり方も様々です。ある人は「呼吸に意識を向ける」と言いますし、ある人は「呼吸しているときの身体の反応を言葉にしよう。例えば、お腹が膨らんでいる…。お腹が凹んでいる…。という感じで」と言います。
正直申し上げて、マインドフルネスについては私もわからないことが多いです。先ほどお示ししたように、真逆のことが同じ「マインドフルネス」という言葉で語られているからです。
だからもしこれからお伝えすることを通じて、 奇談 さんが「マインドフルネス」に興味関心を持たれてご自身で調べられたとしても、おそらく混乱するのではないかと思います。
ですからここでは「マインドフルネス」の細かいことは取っ払って、「マインドフルネス」を語る上である程度共通しているところのみをご理解いただければ結構です。その共通点は次のようなものです。
「頭に浮かぶ言葉や評価にとらわれず、こだわりを捨て、『今』をあるがままに捉えることができれば、あらゆる反応がマイルドになる」
ここでは、上記から「頭に浮かぶ言葉や評価にとらわれず、こだわりを捨て、『今』をあるがままに捉えること」を「マインドフルネス」と定義したいと思います。そして 奇談 さんにはこの状態になることを目指していただければと思っています。
上記のマインドフルネス状態になれたとき、人によってはストレスが減るし、人によってはリラックスするようです。実際、私たちの気分が揺れ動くとき、必ず何かしら頭の中に言葉やイメージ、評価などの影響を受けています。
自分のことを「人よりも優れている」と思えば、「優越感」が起きますし、「もうおしまいだ」と最悪の未来を想像したら、絶望を感じるでしょう。「優れている」という評価や、最悪の未来をイメージしたりするときに、人の心は大きな反応を示すのです。
しかし、よくよく考えてみると頭に浮かぶ言葉やイメージや評価は、必ずしも事実を反映したものではありません。「人よりも優れている」という評価は見る人によっても、何を基準にするかによっても大きく異なるでしょう。「もうおしまいだ」と感じた未来が来るとは限りません。いずれ来るかもしれませんが、少なくとも「今」は起きていません。
このことに気づき、マインドフルネスにものごとをあるがまま捉えることができれば、「人と競争すること」から解き放たれてストレスが減るかもしれません。絶望を感じにくくなれば、リラックスした状態に近づくかもしれません。
この原理原則から考えると、おそらく 奇談 さんも、からげんきになったときには何かしらの評価やイメージや思考があったのだろうと思います。無気力になるときも同様です。
であれば、マインドフルネスを実現できれば、「からげんきのときと無気力になるときの波」がマイルドになることが期待できます。
自分の哲学に集中することがマインドフルネス
では、マインドフルネスの状態になるための方法について考えていきましょう。
「マインドフルネス瞑想」がおそらくもっともポピュラーとされている方法かと思います。その中でも特に有名なのが呼吸に意識を向ける方法です。目を閉じ、ゆったりとした姿勢になった上で、自分の身体がどのように呼吸をしているのかに意識を集中するのです。
その間、きっと頭の中には様々な言葉が浮かんで来るはずです。
「今日の晩御飯何にしようかな」
「そもそもこんなことして何か意味があるのかな」などです。
もしそういう言葉が浮かんで来たら、「ああ、浮かんできているな」とその事実をありのまま受け入れた上で、意識をまた呼吸に向けなおします。
そうすることで、一つのことに意識を向ける集中力を鍛えるとともに、「言葉は必ずいつか消えていく」という事実を認識していくことができます。「頭に浮かぶ言葉や評価にとらわれずない状態」になるトレーニングです。
ただ、先述の通り、元来「マインドフルネス」は仏教に由来する概念で、マインドフルネス瞑想も仏教の文脈で行うからこそ意味があるものでした。「頭に浮かぶ言葉や評価にとらわれない」で、仏教の「教訓に沿う生き方」をするための、いわば修行の意味合いがあったのです。
ですから、厳密に言えば、このような「教訓」や「生き方の指針」がない中で瞑想をやってもあまり意味はありません。人によっては「瞑想するだけでストレスが解消される」という人もいますが、本来的には誤った解釈です。
私が 奇談 さんに是非考えていただきたいのは、「自分なりの哲学」です。気持ちの波があろうがなかろうが、誰が評価してくれようがしてくれまいが、「どういう自分で居続けたいか」。その哲学を明確にして欲しいのです。この哲学こそが、仏教でいう「教訓」に該当するものになります。
「頭に浮かぶ言葉やイメージや評価は、必ずしも事実を反映したものではない」という事実を念頭に置き、この哲学を実行に移すことに集中すれば、それはもうマインドフルネスと言っていいでしょう。マインドフルネス瞑想は必ずしも必須ではありません。
例えば「人に優しくありたい」という哲学を胸に抱いたとします。しかし人間ですから、「偽善者だと思われるんじゃないか」と人からの評価が気になるものです。そんなときこそ「頭に浮かぶ言葉やイメージや評価は、必ずしも事実を反映したものではない」ことを思い出し、自分が考える「人に優しくありたい」哲学を実現する行動を取ってみるのです。
「そんなことできない」と思うかもしれません。しかし、それも「頭に浮かぶ言葉やイメージや評価」ですね。まずはできることからで全く構いません。
「お年寄りに席を譲る」が難しければ、「ああ、杖を突いているということは足が不自由なんだな。きっと動きづらいだろうな」と心の中で労いの気持ちを持ってあげるだけでもいいのです。これくらいならできそうな気がしませんか?
奇談 さんは「なりたい職業の選考に落ちてしまった時から、またからげんきとネガティブが再発してしまいました」とのことでした。
この「なりたい職業」の何に 奇談 さんは惹かれたのでしょうか。何かしらのイメージをその職業に抱いていたはずです。その職業そのものにはなれなかったのかもしれませんが、その職業に魅力を感じた「何か」は哲学そのものです。その哲学に自分を近づけていくことはできます。
仮に 奇談 さんが「なりたい職業」に対して抱いているイメージが「華やか」だとすれば、「華やかな人物だったら普段どのように振舞うだろう?」と想像し、自分がその人物になり切って実際に振舞うのです。
他人は「そんなの全然華やかじゃない」と言うかもしれませんが、それはその人の思いであり、 奇談 さんの哲学とは異なるものなだけです。自分の哲学は自分だけのものですから、自分が「こうだ」と思う以上、いついかなるときもそれが正解です。
「精神的に安定していた時には、人を信じられるという精神状態になっていたにも関わらず、今はたまに疑心に囚われてしまいます」との記述に関しても「職業」のときと同じことが言えます。
ネガティブになると、どうしても思考もネガティブになります。そうすると疑心にとらわれてしまいますよね。でも、疑心にとらわれた状態で何かしらの行動を取ると、またそんな自分に対してネガティブな感覚を抱いてしまう負のループに陥ってしまいます。
「疑心に囚われてしまいます」との書き方から、 奇談 さんは「本当はそんな自分ではいたくない」との強い思いが伝わってきます。きっと 奇談 さんには「人と誠実に関わりたい」なり「本音を貫きたい」なりの哲学をお持ちなのではないでしょうか。
であるならば、この哲学をしっかりと胸に抱き、そのときそのときに取れる範囲で哲学の実現を目指していただければと思います。
げんきなときはげんきなときとしてその哲学に沿う生き方をし、ネガティブなときもネガティブなときとしてその哲学に沿う生き方をすれば、げんきとネガティブの波の差分はマイルドなものになっていくことでしょう。 奇談 さんの精神を支えるのは、思考でもなく、その思考に紐づく気分でもなく、 奇談 さんの生き方を左右する哲学です。
以上、「精神を落ち着けるにはどうしたらいいでしょうか?」とのご質問に、「マインドフルネス」の観点からお返事をさせていただきました。
瞑想をするしないはお任せしたいと思います。しかし、「頭に浮かぶ言葉やイメージや評価は、必ずしも事実を反映したものではない」という事実と、その先にある「どういう自分で居続けたいか」の哲学を自分なりに掲げることの重要性は是非知っておいていただきたいなと思っています。
このお返事が何かしら 奇談 さんのお役に立てるものになっていれば幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました。