「うつ病で社会人経験がなく、独身無職の自分はこの世に何の価値も生み出せていない劣った人間に感じる。」の相談内容詳細
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いまストレスを感じている「出来事」を事実ベースで抜き出してみてね。
「いつ・どこで・誰が・何を」を意識するのがコツだよ。
- 大学生時代にうつ病になり、就職できないまま卒業した。
今もうつ病の治療をしながら障害者雇用を目指して就労移行支援に通っている。
就労移行支援に通い始めて9ヶ月ほど経つが、体調が安定せず通所が出来ない日も多い。この調子だといつになったら就職出来るか分からない。
同級生は社会人としてのキャリアを積んでいく中、自分は社会人経験のないまま20代後半になってしまった。
親は就職出来なければ家の仕事を手伝えばいいと言ってくれているが、自分としては社会に出て働きたい。
昔から絵を描くのが好きで、大学も美大に入ったので絵を描く職業に就きたかったが、既卒でスキルも職歴もない自分には無理だろうと諦めている。
好きだった絵を描くことも最近は楽しくなく、以前のように熱中できるものがない。 - 「1」についての「感情」を%で表現してみてね。合計で100%にならなくても大丈夫。直感で書いてみよう。
- 不安90% 苛立ち50% 悲しみ80% 無力感80%
- 「1」について浮かんでいる「考え」を教えてね。
- 社会人経験のないまま20代後半になり、このまま30代になったらどうしようと焦っている。
いい大人なのに独身で恋人もいなくて無職で実家住みの自分は情けなくて子供っぽいと劣等感がある。(ネットでそういう人を馬鹿にする風潮があるため、そういう風になりたくないと過剰に気にしてしまうのかもしれない。)
社会人になりたいのは、ある程度自由に使えるお金が欲しくて、社会人という”ちゃんとした人間”という称号が欲しいからで、仕事自体が好きな訳では無い。
以前はよく絵を描いていたが、最近は楽しくなくなって絵を描かなくなり、唯一得意だと言えることも出来なくなり、アイデンティティの喪失を感じる。
無職で、(お金になるような)絵も描けない自分はこの世に何の価値も生み出せていない、無価値な人間に感じる。 - いろんな視点から捉えるために、上記の回答の「別の可能性」を考えてみよう。
- 社会人だからって皆がみんな成熟した大人というわけではないし、自分と同じように病気になってドロップアウトする人間だって沢山いる。
みんな色んな事情で職につけなかったり独身だったり実家住みだったりするのに、見た目だけで判断して、劣った人間だとレッテル貼りするのは良くない。
ネットにいる悪意を持って他人を見下す人の意見を重視する必要は無い。
絵が描けなくなっても、誰にでも浮き沈みはある。プロじゃないんだから自分が気のむいた時に好きなときに描けばいい。
金銭的な価値を生み出せる人間の方が優れている、この人は劣っている、と誰が決めたのか。比べだしたら上には上がいるのだからキリがない。 - いま専門家に聞いてみたいことは?
- 社会人経験がなく無職で、この世に何の価値も生み出せていない自分を、どうしたら無価値じゃないと、劣っている人間じゃないと思えるようになるか。どうしたら今の自分を肯定的に見れるようになるか。
病気がいつ治るか分からないまま不安に生きる毎日を、どうしたら希望を持って生きられるか。 - 年齢、性別、職業
- 26歳、女、無職
- 既往歴
- うつ病
- 悩みの内容の自由記述
- 結婚願望や子供を産みたいという願望は今のところあまり無いが、恋愛経験があり結婚していて子供がいる人間の方が、人間として成熟していて大人に感じる。独身で無職で実家住みで親の脛をかじっている自分は、成熟出来ておらずいつまでも子供の気分だ。
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好きな原作の二次創作を描いていたが、原作の物語の展開に不満があったり、自分が投稿した絵の評価を過剰に気にしてしまい、だんだん原作を好きでいるのが苦しくなって、原作を追うのも絵を描くのもやめてしまった。
好きな原作を見たり、二次創作活動をしている間は楽しくて嫌なことを忘れられたけど、その原作や二次創作活動が苦しくなって辞めてしまったら、辛い現実だけが残った。
絵を描くことだけが自分の長所だと思っていたから、以前のように絵を描けなくり、アイデンティティの喪失を感じる。自分は無職だし絵も描けなくなったのでは、この世に何の価値も生み出せていない無価値な人間だと思っている。
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就労移行支援所に通い始めた。
早く就職して普通に働きたい。自由に使えるお金が欲しい。社会人として認められて、自分にも生きている価値があると思いたい。
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大学卒業後、とある作品にハマり、二次創作の絵や漫画を描いてネットに投稿した。イベントに出て本を出したり、他のファンとTwitterで交流したりした。
好きな作品への想いを絵で表現したり、自分の描いた絵で他のファンが喜んでくれるのが嬉しかった。
投稿した絵の評価をよく気にしていた。価値のある物を生み出さないと愛して貰えない、他の人より優れていたいという気持ちが強かった。
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B型作業所に通い始めた。
手芸や刺繍をして売り物を作る作業所だったため、色やデザインを考えるのが楽しかった。自分が美大で学んだことを少し活かせた気持ちになった。
でもここにずっと通っていても就職に直接結びつくわけじゃないよなと思い、通い始めて1年ほど経った頃に焦りが大きくなった。
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美大をなんとか卒業できた。卒業制作では、うつ病のことを解説した漫画を描いて展示したら、それを読んだ人達や教授から好評だった。
無事に卒業できて安心した。うつ病になったことは辛いけど、自分の体験が誰かの役に立ったり面白いと言って貰えて嬉しかった。うつ病になった自分を肯定できるような気がした。
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大学四年生のときに、うつ病になった。授業や卒業制作や就活やゼミなどでやる事が重なり、焦りや不安や忙しさで心労が溜まったせいだと思う。卒業が難しそうなので留年した。
他の人は普通に出来ていることが自分には出来ず、病気になってしまったのが情けない。もっと早くから効率良く、授業も卒制も就活も出来ていたら、こんなことにはならなかったんじゃないかと後悔に押しつぶされる。
良い会社に入って自己実現したいという欲求が強かった。美大に入ったのだから、それに関係する会社に入れなければ意味が無い、就職できないまま卒業するなんて落伍者だと思っていた。
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うつ病の治療をしながら、大学に通い、卒業制作を作り、課題をやり、ゼミに出たりした。親に高い学費を出してもらったのに、大学を中退するのが申し訳なかったので無理して頑張った。
うつ病を抱えながら大学のことをこなさなきゃいけないのがとても大変で苦しかった。卒業出来なかったらどうしようと毎日不安で死にたかった。
大学を中退して最終学歴が高卒になってしまうのは情けない、という世間体やプライドがあったように思う。
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友達に誘われてドラッグストアでバイトをした。
接客が得意では無かったので、客や上司に理不尽に怒られたり、コミュニケーションをとらないといけないのが辛かった。接客の仕事はもう二度とやりたくない。
社会人経験がなく今は無職だけど、一応仕事(バイト)はしたことあることで、かろうじてプライドが保たれている。
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絵を描くこと以外に得意で好きなこともなく、他にやりたいことも無かったので美大に入ることにした。高校3年から美術予備校に通い始めた。その後は無事に合格した。
周りは上手い人ばかりで、予備校の教師に絵の出来を評価されダメ出しされ、周りと比べられ辛かった。
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高校生のとき、精神疾患のある友人に依存され、行動を制限されたり過剰な要求をされた。スキンシップが過剰でよく身体を触られた。関わりたくなくて無理矢理に関係を切った。
所謂メンヘラの友人に依存され、当時はどう対処していいか分からずイライラしたり悲しくなった。よく身体を触られて気持ち悪かった。
今では自分も精神疾患になってしまい、友人に依存してしまっているんじゃないかと考えてしまい怖くなる。
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初めてデジタルイラストを描いてネットに投稿した。でもあまり評価がつかず、恥ずかしくなりすぐに消してしまった。
評価がつかないことが恥ずかしかった。ネットの上手い人たちが羨ましかった。
評価や周りの目を気にする気持ちは昔から強かった。
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美術部に入りイラストを描いていた。
好きなようにイラストを描けて楽しかった。絵を展示して褒めてもらえて嬉しかった。他の人と絵の上手さを比べて悔しかったり嫉妬することもあった。
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12
子供の頃は兄によくいじめられていた。
悔しい悲しい。6つも歳上なのに何でもっと歳上らしい態度が出来ないの?イライラする。抑圧されてると感じる。
喧嘩ばかりで兄との関係が悪かったため、相手は関係を良くしたいと思っていそうだが、自分は今でも兄に苦手意識がある。
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絵が好きでよく描いていたが、描いた絵を姉に評価されることがあり、下手だと馬鹿にされることがあった。
下手な絵を描いてしまって恥ずかしい。
絵の評価や他人の目を過剰に気にしてしまうのはこのせい?でもネガティブバイアスが強すぎて褒められた記憶が残っていないだけかもしれない。
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※ プライバシー保護のため、ご質問の一部を編集部で変更している場合がございます。
「うつ病で社会人経験がなく、独身無職の自分はこの世に何の価値も生み出せていない劣った人間に感じる。」への回答
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もなか さん、ご相談をよせてくださりありがとうございます。臨床心理士・公認心理師の小野寺です。
障害者雇用を目指して就労移行支援に通っているものの体調不良で通所が出来ない日も多く、職につけぬ状態のまま30歳を迎えたらどうしようと、強い不安や焦りを感じておられるのですね。
ただでさえ「自分はこの世に何の価値も生み出せていない劣った人間である」と自分を評価なさっておられるわけですから、そんな未来が来ることを非常に恐れてらっしゃるのだと思います。
もなか さんのお立場を想像するだけでとても苦しくなる思いです。うつ病という もなか さんに非がないきっかけで就職できない状況に追いやられたわけですから、悔しさもひとしおだと思います。
同級生と比べてしまうのも、自分の価値が彼ら・彼女らよりも劣っていると感じる要因になっているのですね。同級生は立派に社会人として何かしらの仕事に従事して、何かしらの成果を生産している。それに比べて自分はまだ親の脛をかじっている。そう考えると自分の価値を信じられなくなりますよね。
でも、私はこんな風にも思うのです。
「 もなか さんがご自身の価値を信じられなくなっているのは、ご自身の価値が重視されない『ゲーム』に軸足を置きすぎているからかもしれない」
そのことに、きっと もなか さんも既にお気づきですよね。「金銭的な価値を生み出せる人間の方が優れている、この人は劣っている、と誰が決めたのか」と書いてくださる部分です。
この部分はとても大事だと思いますので、丁寧に考えていきたいと思います。そのことが、少しでも もなか さんの悩みを晴らすヒントになれば幸いです。
まずは当たり前のことではあるものの、しっかりと整理したい事柄から考えを掘り下げていきたいと思います。
その当たり前のこととは、今私たちは日本で生活していて、日本は資本主義国家である、ということです。資本主義ですから仕事をしたらお金を得ることができるし、何かを買うときにはお金が必要です。
上記のルールは資本主義の国で生き続ける以上、許容し、共有する必要のあるルールです。このルールが私たちの生活の土台にあります。だから私たちはお金を稼ぐ必要があります。当たり前ですよね。
ここで大事なことは「資本主義にはルールがある」ということです。ルールがあるものを私たちは「ゲーム」と呼んでいます。つまり、資本主義も広い意味で「ゲーム」なのです。
日本が資本主義を放棄することがない限り、私たちはこのゲームから降りることはできないですね。あまりに当たり前に参加させられているため、ゲームに参加している意識すら持ってない人も多いのではないでしょうか。
必ずしも資本主義ゲームに参加しているという意識を持っている必要はありません。しかし、「資本主義はあくまでもゲームである」。このことは忘れてはいけないのだと思います。忘れてしまうと、それ以外にももっと楽しかったり、得意だったり、有意義なゲームが他にあることまで忘れてしまうからです。
もっとも厄介なことは、資本主義ゲームが「絶対的なもの」であり、このゲームが上手なことが、あたかも「絶対的な偉さ」の証明であると誤解することです。
「年収8桁も稼ぐ俺スゲー」
「私の時給いくらだと思ってるの? 私の時間を無駄にしないで」
「結婚相手の年収は、最低でも1000万ないと嫌」上記のような発言、たまにネットとかで見ますよね。これらの発言を もなか さんはどう思われますでしょうか?
確かにお金は大事だし、稼ぐことも否定しないし、経済を回せてすごいな、とは思います。しかし、私にとってそれらはあくまでも「資本主義ゲームの中」での感想です。
一歩そのゲームをログアウトして、もっと自分の内面を掘り下げて考えたとき、つまり「自分の人生」のゲームをプレイしてみたとき、「自分が得意にしているゲームとは異なるゲームが上手な人たちなんだな」と感じるだけです。
資本主義ゲームが上手だからといって、即座に「人間として絶対的に優れている」とは思いません。いや、むしろ上記した発言をする人が身近にいたら、そっと距離をとるでしょう。それくらい、人間的な魅力を彼らからは私は感じません。
一つのゲームが上手なことだけをもって、優劣を決めるのは弊害を生むのではないかと考えます。一方のゲームの強者が優れていて、もう一方のゲームの強者はそうでもないとの考えは、「サッカー選手の方が優れていて、バスケット選手は劣ってる」とか「男性の方が優れていて、女性は劣っている」と言っているのとまったく同じだと思うのです。それってなんだかおかしいですよね。
また、 もなか さんにはその気はないのかもしれませんが、「何の価値も生み出せていない=劣った人間」との考えは、つきつめると「たくさん価値を生み出す=より優れた人間」となってしまいます。
しかし、そもそも、資本主義ゲームの「価値」は、本当に「たくさん金銭的な価値を生み出すこと」だったっけ?と考えることも大事だと思うのです。
私は、資本主義ゲームの本当の「価値」は「お金を利用して人生を楽しむ」ことにあるのだと信じています。
バスケット選手が何かの都合でサッカーをやらなきゃいけなくなったら、そこで強者を目指す必要はなく、ほどよく楽しめばいいのです。それがサッカーをはじめ、スポーツの本当の価値のはず。
資本主義も一緒です。資本主義ゲームが得意で「稼ぐことが価値」との縛りでもうまくやれる人は得意を伸ばして稼げばいいのです。残念ながら私のように資本主義ゲームがあまり得意ではない人は、楽しく生きれるくらいほどよく稼いで、他の得意なゲームに熱中すればいいのです。
色々と書きましたが、ここで言いたいことは要するに次の2点です。
①「資本主義」はたくさんあるゲームのうちの一つに過ぎないし、そのゲームがうまいからといって人間的価値が決まるわけではない。
②そもそも資本主義ゲームの本当の価値は、「お金を利用して人生を楽しむ」ことにある。もなか さんは確かに「資本主義ゲームでは」独身無職で「この世に何の価値も生み出せていない」のかもしれません。でもそれは「資本主義ゲームのプレイヤー」としての、しかも、その中でも「稼ぐ方が価値がある」との縛りプレイを楽しむプレイヤーの極めて限られた側面での話に過ぎません。資本主義ゲームが仮に上手ではなかったとしても、”ちゃんとした人間”ではないことを意味しませんから安心してくださいね。
私は何も、 もなか さんに「だから社会人になる必要はないよ」と言っているのでも「社会人になろうとの努力はあなたに合っていないからやるだけ無駄」と言っているのでもないのです。
資本主義を採用している国で生きていく以上、このゲームへの参加は半ば強制されています。だから、社会人になることはゲームをプレイしやすくなる側面があることは否めません。 もなか さんが引き続き社会人になる努力を継続なさるのなら、それを応援したいです。
私がお伝えしているのは、あくまで「社会人=”ちゃんとした人間”」「社会人経験=世に何かしらの価値を生み出せている優れた人」は資本主義ゲームのプレイヤーの中の、一部の稼ぐことが得意な人たちだけが言っている話であることを忘れないようにして欲しいということです。
今の もなか さんは、このことをお忘れのように私には思われます。だとしたら、今の段階では「社会人」を目指すことには反対です。まずは資本主義ゲームも「いかに人生を楽しむか」が本当の価値であることをしっかりとご理解いただくことが先決なような気がしているのです。資本主義ゲームに「お金」が不可欠な要素になっているから話がややこしくなっているだけで、あくまでこのゲームの価値は「人生を楽しむ」です。楽しむのに「お金」が介在してきてしまうにすぎません。
「いかに人生を楽しむか」が本当の価値ですから、「社会人」といった形にこだわる必要はないと思います。
例えば、幸いにも もなか さんはご家族から「家の仕事を手伝えばいい」と言ってもらえているとのことですから、そこから始めてもいいのではないでしょうか。これも立派に資本主義ゲームに参加していることにはなります。
「自分としては社会に出て働きたい」とのことですから、 もなか さんは「家の仕事を手伝う」ことに抵抗があるかもしれませんね。しかし、一度家の仕事を手伝ったからといってその先もずっとそうする必要はなく、タイミングが合えば家の外で働くことを希望してもいいのです。むしろ家の手伝いは社会人になるための練習くらいの位置づけくらいでも問題はないでしょう。
いずれにせよ、最初は家の手伝いであったとしても、たとえわずかでもそこで「お金を得ること」は貴重な体験ですし、「得たお金を自由に使うこと」そのものが人生を豊かにします。
もなか さんは絵を描くのがお得意とのことですから、家の手伝いをする傍ら、ココナラ( https://coconala.com/ )やクラウドワークス( https://crowdworks.jp/ )などのクラウドソーシングで絵を描くお仕事を見つけてみてもいいかもしれません。
もちろんうまくいくことばかりではないでしょうし、「社会人」と同じように稼げるとも限りませんが、目的は「資本主義ゲームに参加すること」ですから、気が向いたらチャレンジしてみてもいいのではないでしょうか。
こういうと「いやいや、『人生を楽しむ』ことが価値だと言うなら、たくさん稼いだ方がたくさんお金を自由に使えて楽しいじゃないか。やはり社会人になって稼ぐことに価値があるじゃないか」と思われるかもしれませんね。しかしそれは誰もが陥りやすい誤解なのです。
心理学や行動経済学の研究では、お金の「使い方」は人を幸福にすることに影響しますが、お金の「量」は幸福にそんなに影響しないことがわかっています。
例えば、昔のアメリカの研究で「年収と幸福感の関係」について調べたものがあります。この研究から分かったことは、確かに年収が増えれば幸福感も増えるのですが、それは800万円ほどまでで、それ以上年収が増えても幸福感を高めることはない、ということでした。
年収800万というと大金に思えるでしょうが、この研究はかなり昔の研究で今より安価に楽しめる娯楽がなかった時代です。今はyoutubeやTik Tokなど無料で楽しめるものや、サブスクで利用し放題のコンテンツにあふれていて、当時よりさらに幸福の金銭的ハードルは下がりました。だから、年収が4~500万円程度以降の年収は、人の幸福にそれほど大きな影響をもたらさないのではないかと思われます。
「年収が4~500万円」であってもなかなかハードルが高いわけですが、ここでご指摘したかったのは、金銭的価値を生み出し続けることが、幸福を高め続けるわけではないということです。もっともっと少ない年収でも、幸福を感じる工夫は取れると思います(その工夫の例は後述します)。
また、自分のために高価なものを買いそろえても、得られる幸福感は一時的なものでしかないこともわかっています。だから高級ブランド品を買いそろえる人のことをつい「いいな」と思いがちですが、「すぐに消える幸福のお尻を四六時中追いかけまわしている」とみることもできてしまうのです。それって本当に幸福と言えるのか…私には疑問です。
それよりも、たとえ少額でも人のために何かプレゼントしてあげたとか、自分の些細な楽しみのため(プチ贅沢)に使う方が幸福感は長期に持続することが知られています。このような工夫は、年収が少なくても幸福感を感じることに寄与しますね。
上述したような、本当の資本主義の「価値」に気づいている人はあまり多くはない印象です。だって、「たくさん稼げば幸せになれる」と信じて、苦労して、頑張ってお金を稼いでいる人たちにとっては面白くない話だから。
そんな苦労をした人たちは、自分の頑張りを過小評価しないために知らず知らずマウントを取ります。あたかも「稼いでいること=偉い(価値がある)」とネットで風潮し、自分たちのポジションを確固たるものにしようとするのです。
もなか さんは「いい大人なのに独身で恋人もいなくて無職で実家住みの自分は情けなくて子供っぽいと劣等感がある」といった理由を「ネットでそういう人を馬鹿にする風潮があるため」と解釈されていましたよね。私もその解釈は正しいと感じます。 もなか さんも、そんな彼らのポジショントークに気が病んでいたのだろうと思います。
でも、彼らは彼らの得意なゲームで戦っているだけです。彼らにとって「価値」の基準と私たちにとっての「価値」の基準を同じにする合理性はどこにもありません。
ただ、こんな反論もあるかもしれませんね。
「そうは言っても、たくさん稼いでたくさん貯蓄しないと後々大変になるんじゃない?」
2019年に「老後2000万円問題」が世間を騒がせたこともあり、将来を心配するのも当然です。しかし、コロナの影響で支出が減った2020年の家計調査のデータを用いて再計算すれば、そこまで大きな心配をする必要がないとの結果も出ています(『結局、老後2,000万円問題ってどうなったんですか?』 https://amzn.to/3wuvfsy )。
この急展開を「国の統計はあてにならない」とみるのではなく、「支出を抑えれば老後の心配は減る」ことを物語っていると見る方が建設的です。資本主義ゲームの本当の価値である「お金を利用して人生を楽しむ」のに、必ずしもたくさん稼いで貯蓄する必要もなかったのです。
ますます「金銭的な価値を生み出せる人間の方が優れている」との考えは、限られた一面を切り取った考え方であるように私には思えてきているのですが、いかがでしょうか。
「社会人=”ちゃんとした人間”」の図式は、あくまで資本主義ゲームを「稼ぐことが価値」の縛りプレイで楽しんでいる人たち内だけの話であることを忘れないことは、 もなか さんにとってはうつ病の治療の一環にもなり得ます。
今の もなか さんは、うつ病が治りにくい悪循環の渦中にいるように思うのです。その悪循環とは
社会人じゃない→自分は価値を生み出さない劣った人間である→ネガティブ感情になり体調が安定しない→働けない(社会人じゃない)→自分は価値を生み出さない劣った人間である→…
といった循環です。
今、 もなか さんが思うように社会人としての一歩を踏み出せないのは、うつ病であるのだから仕方がないことです。 もなか さんのせいではありません。
しかし、その状況に対して「自分は価値を生み出さない劣った人間である」と定義づけると、うつ病を持続させる結果につながるので、何かしらの対策は必要となるでしょう。その一つこそが【「社会人=”ちゃんとした人間”」の図式は、あくまで資本主義ゲームを「稼ぐことが価値」の縛りプレイで楽しんでいる人たち内だけの話であることを忘れないこと】なのです。
今自分が置かれた立場・状況を否定する行為は、足場をぐらつかせてしまうことになります。せっかく もなか さんはその場から大きくジャンプして何かを成し遂げたいと思っているのに、足場がぐらついていては飛ぶことがとても難しくなってしまいます。
だからうつ病を治す、社会人になる、そういった大きな飛躍をする前には、しっかりと足場である「自分」を肯定することが大事なのです。 もなか さんにとっては「確かに社会人ではないけれど、だからといって”ちゃんとした人間”じゃないことにはならない」と正確に理解することが、そんな足場固めに繋がるはずです。今の もなか さんは縛りプレイで資本主義ゲームをプレイする段階ではない、というのが私の感想です。
最後にまとめをしていきたいと思います。
もなか さんはうつ病という もなか さんに非がないきっかけで就職できない状況に追いやられ、一方同級生はどんどんキャリアを積んで自由に使えるお金を増やしていっています。
そんな社会人である彼らと比較すると、どうしても自分のことを「価値を生み出さない劣った人間」と考えてしまいますよね。
しかし、このように考えることの弊害は大きく二つあります。
一つが、「社会人として稼ぐことに価値があるとされるのは、資本主義ゲームを縛りプレイで楽しむ人たちだけの話。縛る必要はないし、そもそも他にもゲームはたくさんある。そのことを忘れてしまいがちになる」です。
二つ目が、「社会人になりたいと望む『自分』のことまで否定することになると、社会人になるための活動に気力がわかず、かえって社会人への道のりが遠のく」です。
資本主義ゲームの「本当の価値」は、稼ぐことではなく「お金を使って幸せになること」のはずです。
だとしたら、「社会人」といった形に必ずしもこだわる必要はありません。家の手伝いやクラウドソーシングも立派な資本主義ゲームです。まずはそこからお金を得る経験をし、得たお金を幸福感を高める使い方で使うのはどうでしょうか。
そうすることで、資本主義ゲームに参加すること、自分を幸せにすることの両方が同時に叶い、「社会人」に近づくとともに、「うつ病の改善」にも繋がるはずです。
今回 もなか さんは、【聞いてみたいこと】に「どうしたら希望を持って生きられるか」と記載の上、ご相談をよせてくださいました。私はそれを拝読して安心したのです。「完全にご自身の価値を見限ってしまったわけではないんだな」と思えたからです。
もし完全に見限っていたのなら、「どうしたら希望を持って生きられるか」といったことを知りたいとは思わないですよね。まだ諦めてはいないからこそ、「どうしたら」と考えるのだと思います。
それがたとえわずかなものであったとしても、 もなか さんはまだ希望を持っておられるのでしょう。その「希望」と名前の付いた芽を枯らすことなく育てていくことが何よりも大事な気がするのです。
「希望」を枯らさないために、ぜひ、「資本主義はゲームに過ぎない」「誰もがそのゲームの強者になる必要はない」「強者に価値があるわけではない。仮にあってもそれは『稼ぐ=価値がある』の縛りプレイをしてる人たちだけの話」ということを頭の片隅にでも入れていただければと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。