「ありのままの自分でいよう」
「まずは自分を愛することから」
そんな言葉を目にする機会はあるかな。
だけど「ありのままの自分」ってなんだかわからないし、最初に「自分を愛する」ができたら苦労しない。
そんなふうに思う人もいるよね。
今回は「ありのままの自分」とはどういうものなのかについて心理学の視点から見ていくよ。
目次
「ありのままの自分」って?
「ありのままの自分」は心理学においてどのように扱われてきたんだろう。
少し退屈かもしれないけれど、言葉の意味を整理しておくと理解の助けになってくれるよ。一緒にみていこう。
「ありのままの自分」と自己受容
「ありのままの自分」に近い心理学の概念としては「自己受容」があるよ。
自己受容とは「自分の様々な側面について、これまでの経験をもとに『いまの自分はこうなんだ』と理解し、良い悪いや好き嫌いの基準なく受け止めようとする姿勢」のことなんだ。
簡単に言えば「どんな自分も受け入れられている状態」ということだよ。
自己受容に関しては1950年代にカール・ロジャーズが言及したことをきっかけに、特に臨床心理学の分野で研究が進められてきたんだよ。
自己受容は、成熟した人格や心理的健康を支える重要なものであり、良好な人間関係の重要な要因になるとも言われているんだ。
「ありのままの自分」がわからない心理
そうは言っても「ありのままの自分」がなんなのかわからない。自己受容なんてできない、と感じる人もいるよね。
ここではそんな苦しさの背景にありがちな心理について見ていこう。
条件付きの承認で生きてきた
これまでの人生で、テストの点数や親からの言いつけなど「このほうが正しい」とされる基準に従って、条件をクリアしたときにだけ認められる、といった経験をしてきた人もいるよね。
そうした条件付きの承認ばかりを得てきた経験からは「自己受容」の気持ちが育まれにくく、「ありのままの自分」を見失ってしまうことが多いんだ。
「こうしなければ認めてもらえない」と苦しい中を耐えてきたのに、その経験が自分を見失わせてしまうなんてとても辛いことだよね。
自他境界(バウンダリー)が揺らいでいる
条件付きの承認の中で生きてきた人は、自他境界(バウンダリー)が揺らぎやすくなるんだ。
自他境界(バウンダリー)とは簡単に言えば、「自分がどこから始まりどこで終わるのか、という意識的な境界線」のことだよ。
これでも少しわかりにくいかな。いくつか例を出してみるね。
・自分のスマホは他の人のスマホではない
・自分の意見は他の人の意見ではない
・自分の感情は他の人の感情ではない
つまり自他境界(バウンダリー)というのは、どこまでが自分の領域でどこまでが他人の領域なのか、という認識のことだと言えるね。
この自他境界が揺らいでいると、「おまえのものはおれのもの」と言うガキ大将のように他人の領域に踏み込んでしまったり、逆にどこまでが自分の領域なのかがわからないまま他人にコントロールされて、主体的な行動がとれなくなってしまったりするんだ。
そんな状態で「ありのままの自分を大切に」と言われても、どこまでが自分の領域なのかわからなくて途方にくれてしまうよね。
ありのままでは嫌われると思ってしまう
上でも触れた「条件付きの承認で生きてきた」経験や「自他境界(バウンダリー)が揺らいでいる」ことは「ありのままの自分は嫌われる」という思いを強める要因にもなるんだ。
たとえば「ここで冗談を言ったら滑るかもしれないけど、ウケたら人間関係がよくなるかも」というのは、リスクとリターンを計算した考え方だよね。
一方で「言いたいことを言ったら嫌われるに決まっている」という考えは、自分の思い込みと、周囲の反応の間の境界線が揺らいでいる状態だと言えるね。
自分の考え方や価値観を優先させれば、そのぶん周囲の価値観や常識とぶつかってしまうことは増えるよね。周囲から変な人だと思われたり、嫌われてしまうこともあるかもしれない。
人間は得られる利益よりも損失のほうを三倍ほど強く認識するという性質があるから、嫌われることを強く恐れる気持ちは自然なことなんだ。
だけどその一方で「周りに迷惑をかけている」「自分は役に立たない」といった、評価や条件に基づいた基準や自他境界(バウンダリー)の揺らぎを抱えていると、自分の意見を言えず人に合わせてしまったり、マイナス思考になって積極的な行動がとれなくなってしまうことがあるよ。
そうして過ごすうちに、自分の意見はなんだったのか、どんなふうに行動したかったのかといったこともぼやけてきてしまい「ありのままの自分」から遠ざかってしまうんだ。
これってとっても苦しいことだよね。
「ありのままの自分」に近づく考え方
ここでは「ありのままの自分」に近づく考え方を紹介していくよ。
一朝一夕で劇的に変わるようなものではないけれど、きっと役に立つはずだから、覚えておいてくれると嬉しいな。
「正解」を疑ってみる
「空気を読む」「わがままを言わない」
そうした「そのほうが正しい」と無意識に感じる基準ってあるよね。
だけどその「正解」に従っているうちに、心にモヤッとしたものを感じることはないかな。
そんなときは「正解」そのものを疑ってみて。
「なぜそれが正しいとされているのだろう」「なぜそれが正しいと思ったんだっけ」と、周囲を分析したり自分の心に目を向けてみるんだ。
実際に従う必要のない「正解」に気づけることもあるし、そうでなくとも「正解」を押し付けられるだけじゃない、新しい視点が得られるようになるよ。
そのときどきの実感を大切にする
自己受容ができている「ありのままの自分」とは、その時々に自分の中に生じている気持ちや感情を感じ取り、居場所を与えられている状態をいうよ。
自分の外にある他人や社会に合わせるのも大事だけど、そればかりでは疲れてしまうよね。
まずは自分の中から湧き上がる感情をモニタリングすることに力を使ってみよう。
出来事に対して「自分はこう感じた」と認識していくと「自分がここにいる」という感覚が養われていくんだ。
たとえば「周囲の人への悪口や不満を溜め込んでいる。それをありのまま表現すれば嫌われるに違いない」といった不安を抱えている人もいるよね。
だけど「ありのままの自分」というのは、なにも自分の本心を包み隠さず見せる、ということではないんだ。
むしろ「自分は周囲の人に対してこんな不満を持っている」と、自分の気持ちに目を向けて、居場所を与えてあげることのほうが大切なんだよ。
実感を大切にするためのテクニックとして、ジャーナリングやメンタライゼーションが応用できるよ。試してみてね。
飾った自分も自分自身
上でも触れたように「ありのままの自分」は、何もかもさらけ出してしまう、という意味ではないんだ。
たとえば、休日の髪型や化粧、服装といったファッションは、普段の自分にプラスして着飾るものだよね。だけどそれを偽りの自分だと感じることは少ないんじゃないかな。
一方で、職場や学校で規則や同調圧力によってファッションを制限されている場合には周囲に「正しさ」を強いられているような感じがするかもしれないね。
自己受容の定義を使って考えれば「自分は今、自分がなりたい自分像に近づけているな」と感じられる状態が「ありのままの自分」だと言えるよ。
「そうしなければならない」という思考はほどほどに、「なりたい自分」は大切にね。
今の自分
なりたい自分
豪快に諦める
諦める、というとネガティブな印象を受けるかもしれないけれど、ときには諦めも肝心だよ。
でもこれは「苦しい状況を打破するのを諦めろ」とか「自分らしく生きるのを諦めろ」といったことではないんだ。
たとえば身長の低さに悩んでいるときなんかは、身長の低さそれ自体は「それはどうにもならんわガッハッハ」とスッパリ諦め、ヒールで盛ってみたり、カバーするようなファッションを試してみるのが有効だよね。
それと同じように「変えられるもの」と「変えられないもの」の境界線をうまく認識して「変えられるもの」の改善方法を考えながら「変えられないもの」は諦めていくのがオススメだよ。
「この人は何を言っても変わらないな」と思ったら「よし、じゃあ変えられるところを変えてみるか」と考え方を切り替えてみてね。
伝え方を変えてみる、それでもダメなら環境を変える。「変えられないもの」にとらわれている間は見つけにくいけれど、できることは案外たくさんあるはずだよ。
「自分を愛せない」のは悪いことじゃない
「ありのままの自分になるために、まずは自分を愛してあげよう」なんて言われても、そう簡単にいけば苦労しないよね。
それに「自分を愛せない自分はダメ」と、よけいに傷ついてしまうかもしれない。
そんなときは「なぜ自分を愛せないんだろう」「どこがダメだと思っているのだろう」「それをダメだと思ったのはなんでだろう」「それは本当に“ダメ”なのかな」と、考えを深めてみて。
自分を愛せないのは、決して悪いことじゃない。むしろ自分のどこが愛せないのかについて考えることは、自分の考え方や価値観を見直す良いきっかけになってくれるはずだよ。
「ありのままの自分」まとめ
「ありのままの自分」は、よく使われるわりに分かりづらい言葉なんだ。だからこそ一歩ずつ丁寧に近づいていってあげないと、すぐに離れていってしまうよ。
「ダメな自分」と「ありのままの自分」を切り分けて、遠ざけてしまわないようにね。まずは日々の中で感じる自分の気持ちに居場所をあげることからはじめてみよう。
そうすることで自分だけの基準ができていって「パーフェクトな自分」の理想にとらわれない「ベストな自分」の姿が見えてくるはずだよ。