「テレビやTiktokで誰かがスベっていると見ていられない」
「人がミスをしたとき自分も失敗したみたいにドキドキする」
そんな気持ちになったことがある人はいるかな。
この現象は「共感性羞恥」なんて呼ばれることもあるよ。
共感性羞恥はその名前とは裏腹に、「共感」の感情とは異なる部分も多いんだ。今回はそんな共感性羞恥が生じる要因や仕組みについて、心理学的な観点から解説していくね。
目次
共感性羞恥とは?意味や例
まず最初に共感性羞恥について、一般的な意味や定義を踏まえて解説していくね。
共感性羞恥の定義と読み方
共感性羞恥は「きょうかんせいしゅうち」と読むよ。一般的な意味は「ドラマの恥ずかしいシーンや他人のミスを目の当たりにしたとき、あたかも自分が失敗したかのように感じる」現象だと言われているけど、もちろん病気ではないし、厳密な定義もないんだ。
もともとは、1987年に心理学者Miller氏が「empathic embarrassment(共感的な困惑)」として使用した概念を元に発展した言葉だよ。
一方で最近の心理学的研究では、「共感性羞恥」は誤用で「観察者羞恥」と呼ぶほうが適切だという指摘もあるんだ。観察者羞恥については次の目次で詳しく解説するね。
共感性羞恥と観察者羞恥の違い
実は「共感性羞恥」は「共感」とあまり関係がなく、「観察者羞恥」のほうが適切だと言われているよ。
心理学者の桑村氏は2011年に、「共感性羞恥が共感性によって発生するものかどうか明らかではない」と指摘しているよ。これまで共感性羞恥と呼ばれていたものを「なんらかの要因によって観察者に生じる羞恥感情」つまり「観察者羞恥」と呼んだほうが適切だと指摘したんだ。
共感性羞恥は文字通り「羞恥を感じている人を見てその人に共感する」という意味だけど、相手が本当に羞恥感情を感じているかどうかはエスパーでもないとわからないよね。
たとえばタレントのギャグや振る舞いを見たときに恥ずかしさを感じたとしても、タレント本人が恥ずかしがっている素振りをしていない場合、それは「見ている自分の中に湧いてきた羞恥感情」でしかないんだ。実際に近年では他人の行動を見て感じる羞恥感情への影響は、共感性よりも観察者自身が持つ羞恥感情や観察している相手との関係のほうが大きいことが明らかにされてきているよ。
「共感」が「相手の感情をまるで自分の感情のように体験するプロセス」である以上、こうした羞恥感情は「共感性羞恥」というより「観察者羞恥」と呼んだほうが適切だ、ということだね。
このように共感性羞恥が誤解されるのには「共感」という言葉の曖昧さが理由として挙げられるよ。「共感」そのものについて詳しく知りたい人は、下の記事もぜひ一緒に見てみてね。
だけど、どうして他の人の行動を見たときに恥ずかしさを感じるんだろう。観察者である自分自身に起こる羞恥感情のメカニズムは次の「共感性羞恥はなぜ起こる?」の目次で解説するよ。共感性羞恥を感じることについて時々「うざいな…」なんて思ったことがある人も、ここを読めば理解が進むかも。
共感性羞恥はなぜ起こる?
共感性羞恥が「共感」と異なるものだ、という点についてはわかったけれど、じゃあ共感性羞恥はなぜ起きるんだろう。
性格の影響
人が羞恥心を感じるときは、脳の中の「他人の痛み感知に関与する部分」が活動することが知られているよ。恥と「痛み」が関係してるって面白いよね。
羞恥感情を発生させる鍵は、「こんなところを誰かに見られたら」「おてんとさまに顔向けできない」など想像上のものを含む他人の視線。他人の視線を気にしたり規範意識の強い人ほど、多くの人があまり気にしないような他人の行動やコンテンツに羞恥感情を感じやすい、といったこともありえるよ。
人は他人のマナー違反や失敗を目にしたとき羞恥感情を覚えるけれど、その他人が恥ずかしい状況にいることを認識しているかどうかは関係ないことが研究で指摘されているよ。このことからも共感性羞恥を感じる人は、「相手に共感している」というよりも「個人的な経験や考え方によって、他人の行動やコンテンツに対して恥ずかしさを感じている」というほうが適切かもしれないね。
自他境界の曖昧さ
自分が見ている相手やテレビのタレントなど、自分自身ではない人に対して「恥ずかしくて耐えられない!」と感じてしまう背景には、自他境界の曖昧さがあるのかもしれないよ。
自他境界とは「自分と他人との境界線の認識」のことだよ。
タレントが大勢の人の前で芸をしてスベる、みたいな状況は確かにいたたまれないけれど、そんな舞台に自分が立つことは基本的にはないよね。にもかかわらず過剰に反応して疲れてしまう背景には、自分のことと他人のことをすっぱり分けることの苦手さや、自他境界の曖昧さが潜んでいるのかもしれないね。
自己投影
他人の行動に対して羞恥感情を覚える要因としては性格や自他境界の影響の他にも、他人に対しての自己投影が考えられるよ。
人は自分の欠点や見たくない部分を直視することに耐えられないとき、自分の中のネガティブな要素を他人の中に見出して否定することで、自分自身を守ろうとすることがあるんだ。たとえば普段から嘘をつきがちな人は、嘘をついてその場をごまかす人を見て羞恥感情が働くかもしれないね。
テレビ番組の調査ではあるものの共感性羞恥の発生率は10%程度と言われていて、誰でも感じるというものではないんだ。このことからも共感性羞恥は誰にでも生じる当たり前の感覚ではなく、器質的・性格的な要因やコンプレックスによって引き出される感情だと考えられるね。
共感性羞恥との付き合い方
最後に共感性羞恥に振り回されない、上手な付き合い方について解説していくね。
自分と他人を切り分ける
共感性羞恥はその名前とは裏腹に、相手に共感しているというわけではないんだ。むしろ、自分の中の羞恥感情を相手に投影している、といったほうが適切かもしれないね。
あくまでも自分は自分、他人は他人。その切り分けが上手くできていないと、周囲の人や物事に対して勝手に羞恥感情が働いてしまうことがあるよ。上でも触れたように、そうした自分と他人の境界線の認識のことを「自他境界」と呼ぶんだ。
自他境界の解説や上手に作っていく方法はココロジーでも紹介しているから、気になる人は見てみてね。
自分固有の感覚から始める
羞恥感情など、他人の視線を前提とした感情は、どうしても観念的でとらえどころのないものになりがちなんだ。そうした感情に振り回されて大切な自分の時間が奪われてしまうのはもったいないよね。
そんなときは、好きなものを食べたりお風呂に入ってみたり、自分の身体に根ざした感覚から出発することを意識してみてね。他の人が介入できない自分だけの感覚や経験に浸ることで「自分は自分、他人は他人」といった意識の枠組みができていくよ。
また、自分の好きなものや心地よさを感じるものを探して記録しておくと、色んな感情に振り回されそうになったとき「自分自身」の感覚に帰ってくるための取扱説明書になってくれるよ。
自分の気持ちの理解や整理にはジャーナリングなどの方法が有効だから、ぜひ試してみてね。
共感性羞恥のまとめ
今回の記事のポイントは、大きく以下の3つだよ。
①:「共感性羞恥」は「共感」とは違い、自分の中で勝手に起きる感情。そのため共感性羞恥という言葉は不正確な部分がある
②:学術用語としては「観察者羞恥」のほうが意味合いとしては正確。ほかにも日常表現としては「いたままれない」などの言葉がある
③:共感性羞恥に振り回されないためには、自分固有の感覚を尊重するのが大切
「共感性羞恥」という言葉はその文字とは裏腹に、実際には他人に対して生じる勝手な感情でもあるんだ。「共感性羞恥を感じた」という言い方にはどこか被害者的な雰囲気があり「嫌なものを見せられた」という気分に共鳴して広まったのかもしれないね。
一方で日本語には、他人の行動に恥ずかしさを感じたときに使う「いたたまれない」という言葉があるんだ。「共感性羞恥で見ていられなかった」と言うよりも「私はこれを見ていたたまれないと感じた」と言ったほうが、自分自身を主語に感情や感覚に注目できているような感じで、適している場面も多いかもしれないね。
流行り言葉にのっかるのも楽しいけれど、振り回されすぎないように自分自身の感情や感覚を尊重してあげることも大切だよ。ぜひ意識してみてね。